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こころざしの差

私が、「こいつにはかなわない」と思うとき、それは、その相手が、自分自身など、とうの昔に超越してしまって、時代なり、現実なりと(ときには命がけで)関わっていることを思い知らされたときだろう。いや、そんな立派な事ではなくても良い。その人物が、ともかく目の色を変えて向かい合っているものが、自分自身のエゴイズムだって、まったくかまわない。そこに一滴の純真さ・捨て身の覚悟があれば。

そういう意味の偉物というのは、いつの世の中でも必ずいて、時代を作って行く。シュタイナーは明らかにそういうタイプの一人で、私などが今更言うまでもない。個人的には、何かしら縁を感じる面がある。一宿一飯の恩義みたいな感じかも知れない。そこで、根拠の曖昧なシュタイナー非難を見ると、黙っていられない気持ちになって、深夜このブログを書いている。

シュタイナーはとうに他界しているので、今更教祖に祭り上げようもない。人智学を教条主義的にとらえ・表現する人(Nさんは、その善意は疑いないが、傾向としてはそうなっている)もいるし、一方で、きわめてラジカルに、未完の、未来への萌芽としてとらえる人(T先生はそうだった)もいる。私はもちろん、後者で、霊的な問題がそもそもあるがままに言語化できない以上、シュタイナーにはシュタイナーの読み方があると思っている。当人もそのまま受け取らないでくれと言っていたらしい。要は、魂への働きかけ・作用としての講演であり、著述なのだ。必ずしも字義通りという訳ではない。しかし、霊的に見ることの難しさを、シュタイナーほど微に入り細にわたって具体的に記述した人はまれで、その結果、シュタイナー読みにはある種の免疫が出来て、いわゆる霊能者・幻視者の言動の受け止め方のコツが分かり、歯止めがかかる効用がある。シュタイナーを真摯に読み込んだ人間が、たとえば、オーム真理教のような事件に巻き込まれる(偽預言者にだまされる)ことは無いだろう。

「スピリチュアル」も色々で、平安時代の更級日記の著者なども、今で言えば、スピリチュアル生活そのものの人だ。しかし、平安貴族の女子に見られるような、結局のところ関心が自己救済に終始している、現世の他者・状況への洞察と理解の欠如したスピリチュアルは、自己満足的に営んでいる分には良いのだろうが、一歩踏み出してその地平から批判とか評論を始められても、まじめに受け取ることはできない。こころざしの差が一目瞭然過ぎて。勘弁してください、というのが正直な気分なのだった。

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  1. 2008/03/25(火) 00:27:28|
  2. 人智学|
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春の採点

ここしばらく、書きたいことが多かったが、したいこと・しなければならないことも多かったので、週末のブログを疎か(おろそか)にしてしまう。

サックスは、レッスンに行けない状態が続いたが、このところ練習時(生活に追われ、サボりぎみ)は毎回、ロングトーンにタンギングを加えている。習慣化し、肉体化したものだけが成果としてあらわれるということが、音楽の演奏の場合ほどに如実なものは無い。実は、先日、大学の懇親会(新丸ビル最上階)ということで、久しぶりに東京に出て、今度は忘れずにゾンダのリードを入手し、冷やかしのつもりで立ち寄ったお茶の水ディスクユニオンで、Bennie Wallace(テナーサックス)のCDを買い込んでしまった。大学生の頃に、高円寺のレコード店でLPでそろえたものなどを、今回CD(中古だが状態良好)で買い直した。今のオーディオ環境ではLPが聴けないので。"The Free Will" (with Tommy Flanagan)、"Big Jim's Tang" (with Elvin Jones)、"Brilliant Corners" (with Yosuke Yamashita)。すべて傑作だった。久しぶりに音楽を聴いて興奮した。そういうことで、ベニー・ウオレスの好影響もあり、先日金曜の夜は、実際の曲の演奏でのタンギングに開眼した。やった!という気持ちの進歩があった。少なくとも、主観的には、今までとは違う音が出るようになる。継続は力なり。

目新しいところでは、"Introduction to the theory of stellar structure and evolution"(恒星の構造と進化の理論入門)という本を入手し、日曜から読み始める。自分の学問の枠組みを打ち払って、新しく構築し直そうと言う試みの一歩。恒星と生命には共通点があり、考えたいと思っているのだ。その意味で生命系の物理化学の本(そういう的確な本があれば良いけれど)も探して読み始めたい。


  1. 2008/03/19(水) 06:34:15|
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めくるめくインターネット体験

前回シュタイナーのことを書いて、日本の人智学運動が今どうなっているのか少し気になったので、今朝方遅く、週末の十分な睡眠を堪能した余韻の中で、GOOGLE検索してみた。何だか色々とあったらしい。まず、西川さんのサイトが昨年から開かれていることを知って、そこで情報を得た。一部の人が人智学が排他的だという印象を持ったとしても仕方がないような出来事(分裂)があったようだ。それから、ヒトラーvsシュタイナーという項目を持つサイトがあり、何だか血湧き肉躍るようなことがたくさん書いてあった。この辺は噂とか、立ち話的な知識は持っていたが、まとめて文章で読むのは初めてだったので、興味津々だったが、いささか疲れを感じた。

理想に対する現実というのは、いつでもなかなか厳しいもので、人並み以上に感受性の発達した人たちが、世俗的な欲望まみれになりながら、だんだん変なことになってしまうのが、世の常だ。何でも、若いうちは純粋だが、歳を取って自分(たち)の成果がある種の既得権益みたいなものに変質し、腐臭を放つようになっても気がつかないという悲劇は、ありふれすぎていて、直視する勇気がもてない。この世で力を持つためには連帯が必要だが、それが悪い意味での政治性に堕してしまうことは多い。こんなことは全くの憶測で書いているのだが、地上における法則ではないだろうか。そこを切り抜けるには、錬金術ではないけれど、絶えざる実践に身をさらし続けることしかないように思える。職人的な・自ら手を汚して働く生活が、矮小な政治性から身を護ることにつながるのではないかと思う。

実は、昨日の夕方、バタフライをいつもの悠然モードから、子供と競争ということで、久しぶりに競泳モードに切り替えてみたのだ。確かにうまくなっていたことを実感。からだ全体で水を掴まえている感じ。素晴らしかった。又やろう。しかし、今日になってみると、何か富士登山でも終えた後のような、単なる疲れではない充実感とともに、ネコのようにのんびりしたい気持ちに満たされているのだった。

サックスは、なかなか時間がうまくつながらないが、能力の現状維持はできるよう努力。そろそろ暖かくなってきたので、公園での練習を再開しよう。F師匠、ご機嫌麗しゅう。また四月からよろしくお願いいたしますね。

仕事の方は、このところ、データ解析に時間を取られて、勉強の時間がなかなか取れなかったが、何とかしよう。特に今日は勉強しよう。

哲学の歴史4「ルネサンス」、先週は「ジャン・ボダン1530-96」の項を読む。近代的な国家の主権概念を確立した最初の思想家であると同時に「魔女論」(1580)を書いてヨーロッパ全域に影響を与え、魔女狩りの理論的な正当化を果たした。その意味では有名な「魔女の鉄槌」(1486)と双璧をなすらしい。近代国家概念の確立と魔女狩りの徹底した普及を同時に果たしたというのは、決して偶然ではなくて、何か深い関連がありそうに思える。しかも、自身は神託の予言者として振る舞ったというのだから、奇怪千万だ。歴史をひもとくと、まことに奇怪な人物に遭遇できて、興味が尽きない。「薔薇十字の覚醒」も少しずつ。昨日ようやく第5章「C・ローゼンクロイツの化学の結婚」読む。いずれにしても、この時代のヨーロッパは実に面白い。


  1. 2008/03/09(日) 13:32:52|
  2. 人智学|
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自由ですよ

シュタイナーの「死後の生活」(イザラ書房・横尾忠則の装丁)をのぞいていたら、科学の役割について、収穫された小麦の喩えが語られていて、なるほど、シュタイナー、良いことを言うと思った。というより、シュタイナーによって、私が科学に関わる根本的な衝動が正当化されている気持ちがした。つまり、小麦は収穫され、その九割が食用に供せられたとしても、一割は残されて、次の年の生産のために大地に蒔かれる。同じように、科学の成果の九割が人間の生活に役立たされたとしても、残りの一割は、それが次の世代の世界観を形成するための養分として人間の魂の中に蒔かれるのであると。ここでシュタイナーは、自分たちの精神運動の目指すものが、(科学革命による)世界観のコペルニクス的転換と同様の規模のものであることを再認識させる。そして、十九世紀になってもなおコペルニクスの著作が教会の禁書目録に入っていたことを指摘して、世界観の転換には時間がかかることの自覚を促している。ここで、評論家でも、学者でもない、「世界の改革」を自覚した実践者としての、スケールの大きな、良い意味で西欧的な妥協の無い強靱な精神性を感じてしまう。

科学的な世界観を獲得したことで、わずか数百年で人類の世界認識・宇宙認識のスコープは指数関数的に増大し、二十世紀末には、それが一原子を実空間で認識するスケールと、天文学的なスケールの双方に拡大して、世界認識の技術的爆走が始まった。今はジェットコースターに乗っているような気分がする。

科学的精神の本質は自由にあり、その自由というものも、実は、世界の美的構造への揺るぎない信頼を前提にしている。それは科学・数学の研究が進めば進むほど、ますます確かなものになって行く。一般の人の目にはつかない可能性が大きいが、科学者たちは今、とてつもない技術的な自由を謳歌している。それは個々の経験を超えて、人類の経験として、かつて無い何かを共有させているはずだと思う。科学革命が生じなければならなかった理由は、おそらく、人間の徹底的な思考の自律と自由の経験が人類の霊的な深化にとって必要だったからだろうと思う。その先の「世界の改革」のイメージを思い描くことは楽しい。

少し気になる、一部の人が持っているらしい、シュタイナーが何か排他的なサークルの人であるという決めつけが、どこから出てくるのかよく分からない。誤読だと思う。シュタイナーはその著作が駅のキオスクで売られるようになれば良いと言っていたそうだ。仮に現在の人智学に関わる誰かが排他的だったとしても(私は知らないけれど)それはシュタイナー自身の思想とは関わりがない。ただ、それだけ、気になる思想家ではあるのだろう。現在は小さな思想家の時代なので。シュタイナーの全集は全巻で500巻くらいはあるらしいので、日本で翻訳が読めるのはその一部に過ぎない。知られざるシュタイナーというものもあるかも知れない。大学で学んで、その後完璧に使わなくなったドイツ語を勉強し直して、それらを読むということが、将来できるかどうか。大いに自信なし。

今週は土曜に打ち合わせの仕事が入り、久しぶりに東京に出たが、帰りに、途中まで一緒だったT氏の研究の話が面白く、お茶の水で買う予定だったゾンダのリードの件を完璧に忘却、買いそこねた。かわりに、谷中コーヒーで豆を買って帰り、それを飲みながら一週間ぶりにブログを書く。


  1. 2008/03/02(日) 12:55:43|
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