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人体補完計画(その2)サックスにて人体の不備を補うことについて

前回のレッスンで、タンギングを習う。

これは、小学校で縦笛(今考えるとリコーダー)の名人(何処かから呼ばれてきた専門家)が皆を前に、大講堂で教えてくれたタンギングとは、もちろん別物で、その辺を、サックスの師匠に教えてもらうまで、知らなくて、暫定的に縦笛的なタンギングを自己流にしていたわけだった。師匠の教えるタンギングを、家で試みると、大驚愕であった。おお、これこそジャズサックスの音だ! 何というよろこび(師匠様に合掌)。舌で(舌先ではなく、舌の面積部分で)リードの面積部分(リードとマウスピースの形作る先端部ではなくて)を押さえることによって、リードの開閉を行うのである。それだけで、全く違う音になる。男前の音になるのだった。例えば、「グリーン・スリーブス」を吹いてみると、武骨かつ悲壮感漂う音楽になる。この味わいはテナーでしか出せない。ああ、うれしい。

最近入手した"Johnny Griffin/A Blowing Session"を聞くと、ジョニー・グリフィンとコルトレーンがテナー合戦を繰り広げているわけであるが、「小さな巨人」グリフィンの明確なタンギングが初心者の私には勉強になった。コルトレーンの音作りは、どうなっているのか、未だよくわからない。

そう言うわけで、最近、テナーサックスが入っているCDを探し出しては、聴き直している。ジャケットの写真が気になり、プレイヤーの口の形でアンブシュア(口内を含めた吹奏中の口の在り方)を想像したり、マウスピースがメタルかラバーか、等、見ている。ジョニーグリフィンの場合は、前歯が丈夫そうに発達し、口元(唇の両端部分)の引き締まり具合が良く、天性のテナーマンという感じだ。ちなみに私のテナーの師匠の場合、写真を見ると幼稚園児の時代からサックス吹きの口の形が出来ている (^0^;)

私も、意識して、口の形を変えてみようか。顔は筋肉のかたまりなので、使い方で変わってくるはずである。顔の筋トレ。

サックスの練習は習慣化してきた。ロングトーン、オーバートーン(同一の運指のまま、倍音を出す)、スケール、タンギング、その後、自由に譜面を見ながら、メロディーを吹く。すべてこなすと、たっぷり二時間以上かかってしまうが、楽しみな時間です。

本業の仕事の方は、昨年の総括と、来期(今年)への新しい展開が明らかになってくる時期で、大変だが、楽しみでもある。外から来る仕事は、基本的に断らない方針。それ自体の意味はもちろん、それが準備するであろう新しい展開を、歓迎すると云うこと。

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  1. 2007/01/28(日) 11:17:29|
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素朴唯物論っていうか、ただの多数者側に付く輩

私も、科学者のコミュニティーの端くれに属する。そこで、一般の素人衆に対しての態度と、科学者に対する態度は当然異なるわけで、後者に対しては、あくまでも厳しく望みたい。哲学的反省もなく、昼飯時のネタとして、宗教心をバカにする輩を前に、つい熱弁をふるってしまった。いつもなら、黙ってやり過ごしてきたのに、一体どういうわけだ。

ただ自分が(日本の)多数者の側にいることだけを根拠にして、神を信じるという西洋人の学生をからかったことを自慢げに話す同輩。君たちが根拠にしている「物理」の9割以上が、ユダヤ教かキリスト教信者が建設したものじゃないか。はっきり言って、唯物論日本人が、物理の本質のどこに寄与し得たというのだ。みんな上っ面を撫でてきただけじゃないか。「がっかりだよ!」

「みのもんた」かどうか知らないが、多数者側であること、世間の「常識」に立っていることだけを根拠に、少数者をバカにしたり、排斥したりするのは、わたしには我慢がならない。ましてそれが、素人衆でなければ。挑発を受けて立てしまったのは、仕方がない。もっとも、母集合を日本列島だけに拡大しても、素朴唯物論の人は、多数者とは云えないのが、本当のところではないか。


  1. 2007/01/22(月) 13:10:14|
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素晴らしき日曜日

クリスマスの時期に、バッハのクリスマス・オラトリオを聴こうとして探したのだが、見つからず、一体どこに行ったのか、気になっていたら、今日、やっと見つける。アルヒーフで出ているカール・リヒターの指揮によるもので、スビャトスラフ・リヒテル(ロシアの伝説的なピアニスト)が、毎年クリスマスが近づくと聴くのを習慣にしていたという盤。大太鼓(ティンパニ?)の、ドンドコどんどんどんどんどん、みたいな景気の良い大盤振る舞いと、四方八方から響く輝かしいトランペットで始まるところが、本当にめでたい。神聖な気分と、懐かしい暖かい感情の入り混じった音で、霊・魂・体すべてにとどろき渡る。

シュタイナーは、「ヨハネ福音書講義」(高橋巌訳、春秋社)を読んでいて、人間の精神史として、説得力が違うと思った。ちなみに、岩波版「ヨハネ福音書(小林稔訳)」を読もうとしたら、新しい翻訳が独特の悪文で、極めて読みにくい。佐藤研訳のマタイは、そんなことはなかったのだが。そこで、方針を変更し、文語訳聖書でヨハネを読み始める。関連して、「芸術新潮」1997-10月号「特集ー遠藤周作で読む・イエスと十二人の弟子」。新刊で購入してから、気がつくと十年も経っているが、キリストと12使徒に関連するヨーロッパ絵画・美術の紹介が素晴らしいので、未だに眺めている。遠藤周作のキリスト観はもちろん人間主義的・啓蒙主義的なもので、別に賛同しているわけでも何でもないが、(編集部)が書いたという文章(実際は誰が書いたのだろうか)もとても面白い。

昨日、往年のディズニー映画「メリーポピンズ」のビデオを子どもと途中まで観た。十年以上前、ビデオが高かった頃、アメリカでは日本の今のDVD並に値段が安かったので買ったもので、繰り返し観ているが、やはり、とてつもない傑作だと思う。家庭教師募集のエピソードで、玄関の外に並んだ応募者たちが一人一人強風で吹き飛ばされてゆくところなど、何度見ても、素敵。今ならCGで処理してしまって、なんとも味気ない場面になってしまうだろう。

ディズニー映画と言えば、「ナルニア国物語」も、最近DVDを借りて観た。なんと言ったらよいのだろう。世界観・脚本の単調さ。原作は知らないが。CGで描かれたナルニア国よりも、ロンドン空襲・学童疎開・老教授館などの「現実の世界」の描写の方がはるかに活き活きしていたと思う。「悪の女王」役の女優も、「コンスタンチン」での大天使ガブリエル役の方がずっと魅力的だった。ちなみに、疎開先の館の教授の造作が「エヴァ」の信二君の父親に相似している。「プルートー」の最新巻に出てくる天馬博士のキャラにも信二君の父親が入っていたのが、気になります。


  1. 2007/01/21(日) 11:58:53|
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第三回レッスン

昨日、サックスの師匠にマウスピースを選んでもらう。夕方の大久保駅で待ち合わせ、サックス専門店へ。実にマニアックな世界。otto link metal #6 #7 #8。まず、私が試してみる。#7までは吹けたが、#8は、太刀打ちできない。サイズが決まったので、在庫品をいくつか出してもらい、その中からどれが良いかを選ぶ。私には、どうも今ひとつ、よくわからなかった。私が選んだものは、師匠が吹いてみたら駄目で、師匠の選定に従う。試奏室で、新品のメタルマウスピースを使って、キャノンボールを吹いてもらう。音が、輝き出る。私の音とは全く違う。こういう音を聴くと、私の音など、死んだ魚みたいな気がしてしまう。音と云うよりも、輪郭のはっきりした光のようだ。本来、生命とは、こういうものなのだ。あなたの日常の生命は、本当の生命の輝きにはほど遠い。そう言われているようでもある。もっとも、もちろん、そんな説教臭い説明は、私の後付に過ぎないが。日常、CD等で聴いているサックスの響きなど、生音の残滓に過ぎないと思わされた。音のエネルギーって、いったい何だろう。

楽譜、パッドライフ(タンポの手入れ用)、ストラップなども買う。

レイキ、サックスと、生活の因子が増えて、時間が足りないけれど、ともかく、やるしかないじゃないか。仕事の方の教訓から云えば、「実験」というのは、ともかく出来るときにどんどんやるに限る。「実験」が出来るための条件がすべて揃うのは、本当は、大変なことなので、その条件があるのなら、出来る限りやってしまう。キット、人生も同じことで、レイキとか、サックスとかが出来る条件を与えられている今、それをやるしかないわけである。そう言う口実を付けつつ、練習。締め切りの仕事(本業)も、その後、頑張ろうということに。


  1. 2007/01/07(日) 11:39:28|
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アケオメコトヨロ・人体補完計画

あけましておめでとうございます。
今年もよろしくね。

去年は人生の構造不安定性(fluctuation)が増大し、大きな相変化を経験したが、今年はその結果、新しい相において自分の課題に正面から向かい合うことになる。つまり、胸の高まる、どきどきする、野生の鼓動に従うということ。それを、イデアの領域で行うのである。しかし、そのためには、自分の身体が変わらなければならない。自分の身体が宇宙の音楽の楽器として、うまく鳴るように、変えて行くのである。学問は、今まで、私にとって、宇宙の音楽を聴くための行為だったが、これからは、学問的即宇宙の音楽である。つまり、自分が宇宙の吹奏楽の演奏者の一員になるのである。





  1. 2007/01/06(土) 11:03:29|
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