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平日に休むこと

今、駅前のミスドで、このブログを書いている。
午後4時半を回ったところだが、まだまだ西日が高い。
平日にこういうところで、つかの間、くつろぐのは、よい気持ちである。
休日だと、オヤジ客が結構いて、今ひとつ寛げないのだが、平日にこういうところで、勉強したり、友達とおしゃべりを楽しんでいるのが普通の人たち、つまり、学生とか、主婦とかが、当たり前のように、それぞれの世界を楽しんでいるのは、忘れていた空気感なのであった。

働くオヤジの持つ、殺気に近い邪気が感じられないのがよいのだ。
望むらくは、私がそのような邪気を発散していないことを。

プールで冷たい水に身体を慣らす具合で、数学の世界に身体を戻しつつある。
抽象的な数学の世界に受け入れてもらうには、まず、働くオヤジの殺気を消すこと。

ルーブルの想ひ出



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  1. 2006/03/31(金) 17:00:00|
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ロン・ハワード「シンデレラマン」

「大恐慌」を時代背景にしたアメリカ映画で、最近のものでは「シービスケット」という競走馬をテーマにした映画があって、すごくよかった。アメリカの大草原の美しさ、馬と過ごす幻想的な夜のシーン、競馬シーンの迫真力、どれをとっても、すばらしかったが、あまりヒットしなかったようだ。

一度は廃馬寸前にまで落ちた競走馬シービスケットが、やがて、大恐慌で手痛い敗北感にうちひしがれた庶民の希望の星になるという展開で、よく考えると、本作「シンデレラマン」もその展開をなぞっている。実話らしい。しかし、本作では、始めから終わりまで、違和感がぬぐいきれなかった。よくできた贋作を見せられているような気分とでも言おうか。

ロン・ハワードでは、「ナチュラル」という、ロバート・レッドフォードが不思議な野球選手を演じる映画が昔あって、これは学生の頃観て感動したので、本作でも期待していたのだが。「ナチュラル」は、スーパー・ナチュラルかつ不条理なストーリー展開だったはずだ。

「シンデレラマン」では、大恐慌下の窮乏生活が描かれるわけだが、それが、どうも、引っかかる。空爆で、アフガニスタンや、イラクの庶民を地獄のどん底に引き落としたアメリカ人が、それを棚に上げて、今このような脳天気な映画を撮る。すごく的外れなことを言っているようだが、私が感じたことの本質はそこにあったと思う。贋作ではない、真作には、時代の烙印が押されているものだ。この映画には、それがない。奇妙に教育的である点(family valueの強調)も、インチキ臭かった。「国民教育」映画みたいな感じがする。ラッセル・クロウのハードパンチの理由も納得がいかないのであった。

もっと幻想的なところがある、シービスケットはお勧めだが。全然関係ないが、ついでに、ジム・ジャームッシュ「デッドマン」もお勧めですよ。


  1. 2006/03/30(木) 00:11:51|
  2. DVD・映画|
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自分とは何かと言うこと

自分をどのように感覚しているか。が大事なのだいう意味のことが、私が最近熱心に読んでいる研究者のblogに書いてあり、その通りなのであった。「感覚」には、広がりがあり、自分を感ずる感覚をシュタイナーは「自我感覚」と読んでいたように記憶している。この感覚は、通常の五感以外の感覚である。

有田芳生さんのwebを毎日読んでいるのだが、氏が、茂木健一郎氏の言うように「すべては脳内現象」と、割り切っていたのが、少し気にかかった。これは、自我感覚に目覚めていないヒトの言葉である。元々、有田さんは、古在由重とかの日本の共産主義の学者たちから学んでいたらしいので、唯物論が基礎にあるのだろうが。

自己とは、豆腐のような脳の中で生ずる電気化学的・物理現象だと思える人は、ある意味ナイーブで、ほほえましい。(物質)科学を勉強すると、物理化学的過程のどこにも「意識」の生じる余地はないことが明白なのだが。そもそも、カテゴリーエラーというのか、範疇が違うのであるから、出発点が間違っているわけである。意識は現代の科学の基礎を成す物理学にとって、初めから考察の対象外なのである。マクドナルドで鰻丼を注文するようなものである。


  1. 2006/03/29(水) 14:13:41|
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一区切り

懸案の論文をようやく投稿。
今回選んだJournalのweb投稿システムはすごく簡単で、30分ほどで片が付いた。
次の論文のテーマは二つあるのだが、どちらから手をつけるかが問題である。
それから、残っている雑用もある。レフェリーが三件。これは何とかしなければばならない。今日中に着手すること。


  1. 2006/03/29(水) 13:53:11|
  2. 研究生活|
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阿呆の鳥飼

はる独特の気分に促されて、散歩した。
そのとき、私は、自分のおぞましさについて考えていた。

実は未だ、ニーチェ「善悪の彼岸」を読んでいて、ようやく「高貴について」の章までたどりついたところなのだが、それに関係している。もう一つは、シュタイナーの「神秘学」に関係している。両方とも、現代人にとっては、極めて挑戦的な主張であって、おおかたの人はまともには考えないようなことが題材なのである。従って、私がおぞましいと思ったことも、そのおぞましさに気づかない生活も、ありなのだ。と思う。

ニーチェによれば、道徳には「主人の道徳」と「奴隷の道徳」がある。
日本で、国家だの、道徳だの、声高に叫んでいるヒトがいたとしたら、その場合、もちろん「奴隷の道徳」のことだと思った方がよい。以前、シネマディクトさんが武士道についてそういう意味のコメントを入れてくれていたのを今、思い出した。シネマ君にはニーチェが入っているらしい。ちなみに、日本に「主人の道徳」を考えたヒトがいたとしたら、その人は、仏教者か、何らかのアウトサイダーだろう。世俗的に道徳を考えると、どうしても「奴隷の道徳」しか思いつかないのが日本人なのではないだろうか。

さて、私が考えていたのは、「競争」のことである。テレヴィなどを見ると、美しい競争が放映されていて、感動したりするが、私が考えていたのは、われわれが、日本の一般の教育の中でほとんど無意識的に受け入れ、育んできた競争意識である。これは、どうも、明らかに「奴隷の道徳」に属するようだ。自分がおぞましいと思ったのは、それに関係している。組織で働く研究者の職業的な道徳が、奴隷の道徳にならないためにはどうしたらよいか。精神生活と実生活という二重生活を営むのでは全く駄目なのだ。

昼食の時に、職場の私の競争相手みたいなヒトが、学会の会場で倒れたと言うことを聞いたのである。私の心にそのとき浮かんだことは何だったのか。そのことを、問題にしたかったのだ。そのとき考えたことは、「高貴」の反対であって、自分がいかに「奴隷の道徳」に毒された人間であるかを示すものだった。これを深刻に考えないで、何を深刻に考えたらよいのだろう?

シュタイナーの挑戦的な「神秘学」によれば、いかに自分自身を赤の他人のごとく見なすことができるか、に認識能力の真贋がかかっている。春の小川に沿って歩きつつ、許し難い自分を冷静に見つめるのか、それ以上に、軽侮すべき奴と見下すのか、迷った。たとえ一瞬でもそういうことを考えたというのは何なのだろう。恥ずべきことだった。きれい事を言っているようだが、自分自身の観察者になろうと努力している現在、大きな問題として意識されざるを得ないのだった。

現在の研究環境では、「ゲーム」に参加しなければ研究を進められない。よほど高度に理論的であったり、数学の研究のように、研究資金が必要でない場合を別として、「ゲーム」に参加して(小さな)勝利を収め、その報酬を投資資金にしてさらに研究を育てるのが、今の在り方である。

「ゲームに興ずる奴隷」に自らをおとしめる可能性について、意識的であること。しかし、ゲームを降りるわけにはいかないのである。しかも、ゲームに勝つことも必要なのである。私にはこのゲームは楽しい。しかし、奴隷にはなるまい。そのためには、内的な努力を進めるしかない。

(注)このブログで自分のことを問題にするとき、否定的なことや、ものごとの否定的な側面ばかりが出てくるのだが、これは自分のためのブログであって、誰かにサービスするためのものではないので、ご了解下さい。また、きれい事を書きますが、これも自分のために書いていますので、気に入らないかも知れませんが、そういうものです。


  1. 2006/03/27(月) 16:04:20|
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春の気分

先日、学会があり、また、色々な雑用が重なって、全く勉強をする時間がなかった。此が最大の問題だった。筋トレをしないと、筋肉が消失してゆくように、脳の筋肉(赤瀬川源平)が消えてゆく感じが少し、恐ろしい。一度減少すると、回復するまで時間がかかる。今日は、勉強しよう。それから水泳もしたい。ともかく、年末から年明けにあった緊張感が無い。春のせいであろう。
投稿論文に区切りがついたら、休みを取って、山の方へ行って、釣りなり、温泉なり、ともかくぼーっと過ごしたいと思う。しかし今は、勉強しなければと言う、切迫した気持ちを回復したい。このところ、義務的な雑務ばかりだった。学会は、日帰りだったが、懇親会も含めて、充実はしていた。学生、ポスドク、私の三人続けて発表して、終わってから座長に「すごく面白いですね!」と言われて、とてもうれしかった。
先日受理された論文は、ゲラが来た。此はこれで、一面クリアみたいな感じだが、ボスキャラを倒したわけではない。一番力を入れている方は、未だ受理されていないので。

下の写真は、ロシアの風船ガムのテレヴィコマーシャル。
風船ガム




  1. 2006/03/25(土) 10:04:09|
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家庭内名画座二本立て「チャーリーとチョコレート工場」「世にも怪奇な物語」

子ども向け洋画で、老婆が出てくるものと言えば、「メリーポピンズ」で、鳩のえさ売りの老婆を思い出す。哀愁のメロディーとともに。「メリーポピンズ」級の傑作とは言えないが、前半のめくるめく歌と踊りの世界は、万人必見。これは素晴らしい。私は笑いが止まらず、困りました。ウンパ・ルンパのおじさんはよく見ると風貌がインド風でもあり、これはディズニー映画(本作はWBですが)というよりも、むしろマハラジャ・ムービーのノリですね。つまり、無限に続く躁の世界。実際、インドの王様が「チョコレートの天才」ウイリー・ウオンカにチョコで宮殿を建てさせるシーンがありました。

ティム・バートンは、ウイリー・ウオンカ役は、本当は、マイケルジャクソンに頼みたかったのではないか。妙に優しげで頼りなさそうな話し方といい、白塗りで頬のこけたメークと言い、丸めがねサングラスと言い、ジョニーデップが映画の中でマイケルジャクソンを演じているようにしか見えません。アメリカ人にはすぐにぴーんと来るジョークなのではないかと、日本人の私は想像してしまう。実際、ウイリーウオンカと父親との和解とか、ディズニーランド風の世界を自分自身で建設して、子どもたちを招待したりとか、ストーリー自体がマイケルの人生と重なっているように思える。

後半になると、ウンパルンパの活躍がなりを潜めて、悪い子にお仕置きを加えるようなストーリー展開になり、ハリウッドB級コメディー的・凡庸なギャグが続いて、いかがなものか。「2001年宇宙の旅」のパロディーシーンなど、少し、躁のエネルギーが息切れしている感じ。

旧作の方の映画のウンパ・ルンパの歌が素晴らしかったので、もう一度聞きたいと思っています。

「世にも怪奇な物語」の感想は、また後で。


  1. 2006/03/21(火) 09:12:12|
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広場の孤独

テレヴィ等で悲惨としか言いようのない事件が報じられて、それが最近では余りにも多いので、まともに考えたり、感じたりしていては身が持たない。それは確かであるが、先日職場で昼飯を食べながら、同僚がある事件に関してコメントしているのを聞いて、何か暗然とした気分を味わった。要するに、歳を取っていても、内面的な人生経験がそれ相応の深まりを見せているとは限らず、想像力の欠如した、自分を安全な、優等生の立場に置いたものの見方を臆面もなく見せつけられたわけだが。私は、紛うことなく、分類上、自分自身が少数者の端くれなので、少数者のことを考える。別に格好をつけているわけではない。そして、自分を多数者とか、世間の常識の側に置いて何の疑問もない議論を聞いていると、「あんた、それでも知識人の端くれ?」と、心の中で叫びだしてしまう。こういうと「おばさん」に悪いが、あんたは「おばさん」か「みのもんた」か? と言いたくなってくるわけだ。

いやしくも科学者の端くれなら、常に少数者で無ければならない。それがあなたが先端に位置しているための必要条件だ。統計的な平均値に近ければ近いほど、あなたの科学者としての存在理由は低くなる。既に常識になっているものの周りで騒ぐのは、多数者(=その他大勢)の仕事じゃないですか。一事が万事とは良く言ったもので、仕事の内容と研究者の「人となり」は、それが優れたものであればあるほど、同調してくるようである。少数者への愛の無い研究者、或いは少数者の自覚のない研究者は、世界に新しいものはもたらさないであろう。生まれたばかり、未だ自分以外の「人類」が気づいていない、非常識な存在。その価値は未だ世間が知らない価値であり、それに敏感に同期できる直観力は、少数者・例外者のものである。言い古されたことかも知れないが、一応書いておこう。

だが、今の日本で、無条件に自分を多数者の側に置くと言うことこそが、既に前世紀的というか、あり得ないことであって、彼こそが例外であったという逆説こそが真実なのかも知れない。それが彼の孤独の真相。

戴冠




  1. 2006/03/12(日) 09:04:22|
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エーテル体の体育と肉体の体育

昨日は、K国企業の訪問を受ける。
「プロジェクトX」などでも取り上げられている、日本企業の脅威となっている、飛ぶ鳥を落とす勢いの、例のS社。日本進出の拠点として、六本木に自社ビルを建て、従業員は約30万人。今年上半期、ディスプレイ部門への追加投資が7000億円だそうだ。桁が違う。日本企業は勝てない。日本で開発された新技術が日本では日の目を見ず、商業化はK国企業、と言うパターンがますます多くなるのかも知れない。実は、技術者の1/3は日本人で、今日来たのも日本企業から流出した優秀なエンジニアだった。日本企業の動きの遅さに比べて、ともかく、決断が早い。私自身の発明は多方面に展開できるので、その一端は日本企業だけでなく、成功すれば、K国でも使われることになるかも知れない。日本企業の動きが余りにも遅ければ、われわれとしても、仕方が無い。私自身の場合でも、成果が組織の中で認められ始めたのは最近のことで、発見から既に十年近く経っている。新しいものの価値を探したりする認めたりする意欲が、日本社会の中で、どの程度あるのか、よく分からない面がある。

その中で、私自身は健闘していると言って良いのではないか、と思う。生活もかかっているので、ハングリー面では、誰にも負けないぜ。ハングリーと言えば、亀田vsボウチャン。面白かったね。亀田を見ていると、太平洋戦争にかり出された日本の農村出身の若者とか、あんな顔だったのかな、なんて想像してしまい、何故か泣けてくるのだった。それにしても、メキシコの国歌って、きれいな曲だね。すごく良かった。

テレヴィ番組としていかに演出過剰であっても、リングに上がる人間は救済不可能な孤独の中にあって、それが離れて見ているわれわれにも正確に伝わってくる。目を閉じて真剣に祈っている、リングに上がる前の亀田の姿に、この若者の本質が現れているように思った。

そういうわけで、肉体だけではなく、エーテル体も鍛えようではないか!
って、何云ってるんだか分かりませんね。


  1. 2006/03/09(木) 07:17:46|
  2. オルタナティブな身体|
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生活と神秘、そして、平沢進「時空の水」

最近、ある日本人研究者のブログを集中的に読んでいて、とても共感も出来るし、こんな人がいること自体がすごいと思って、今後、どのように展開してゆくのかとても興味もあり、また、自分も少しずつでも努力しなければと刺激されている。要するに、シュタイナー、ベーメ、東方キリスト教神秘主義、プロティノス、プラトン、インドのグルたち、現代のスピリチュアルな冒険者たち、その他その他の、イデア的世界を知識としてではなく経験として知っている人類の先達たちの知をリアルなものとしてとらえて、いわば、霊的な知の統合を目指しているわけだ。哲学の再興であり、21世紀のルネッサンスとも言えるかも知れない。それはそれは壮大なものである。しかし、敢えて、漠然と感じている不満めいたことを云うとすれば、こういう試みにおいては、ある意味で価値観が一元化してきて、「おもしろみ」が無くなってくると云うことだろうか。俗なもの、意味のないもの、下らないものへの愛が欲しくなってくるのだった。「おれたちを置いてきぼりにしないでくれよ!」と言う気分だろうか。こういうのはへそ曲がりの無い物ねだりでもあり、そういうことを感じる自分自身が俗っぽすぎるのかもしれないが。原理の統一化の下で、価値の一元化を見事に避ける唯一の方法は、細部の無限の作り込みであって、それは、この物質的世界に実現されているとおり。

ある大きな価値を実感したり、生きたりする。そしてそれを「論」として構築する。それは哲学者の仕事だ。シュタイナーの場合は神智学的伝統に沿っていて、ベーメにも出てくる「悪」に関する深い考察を持っている点が興味深い。そこでは、悪にも磁石のような両極性があって、アーリマン的悪とルシファー的悪があり、人間は両者に絶えず誘惑され続ける存在とされている。その間で、いわば均衡を保つ働きがキリストと名付けられる。小さな悪の間で、頼りなく揺れ動いている人間に、同情と、密かな共感を持つ私。しかし、むしろ意識できない領域で、それを自分自身乗り越えるように促されているのかも知れない。

そんなことを考えながら、平沢進「時空の水」を聴いた。高校生の子どもが見つけてきたもの。平沢氏は坂本龍一よりは若いかも知れないが、ひょっとすると私と同年代かも知れない。これは傑作! あらためて通しで聴くと、同時代人のみが感じ得る昭和ー平成的俗世間の香ばしい匂いと、時空を越えた何かが渾然一体となった、懐かしくも不思議な、私の好きなレトロフューチャーな気分が横溢して、春の気分を高めてくれるのであった。


  1. 2006/03/07(火) 05:33:39|
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おもしろい・・

この一週間は、充実という意味では充実していた。何の不満も無い状態と云えばよいだろうか。

緊張すべき場面もあるにはあった。特許問題で、企業のヒトと利害の調整をしなければならなくなったのである。前日に友人Sに相談、強気に出る方針を固めた。こういうときにいい加減な態度を取ることは、組織の一員としては、厳密に言えば背任行為にもなるわけだし、二十年かかって研究してきた成果をみすみすかすめ取られるような事態にならないとも限らない。結果的にはこちらの言い分の通りに進むことになったが、色々と複雑な面もあり、ベストとは云えないにせよ、ベターではあると云うことで納得。いずれにせよ、特許は使われなくては意味がない。

以前に投稿した論文も受理された。今書いている論文は、発見した現象に関する部分は既に投稿中で、その現象の数理モデルなのであるが、木曜に致命的な点を見つけ、金曜にMathematicaでグラフィック表示しながら考え直す。今日は、週末。家で活元運動と瞑想をしてから、食卓でぼーっとしていると、正解が見えた。金曜に考えた地点から、わずか一歩進めたところに答えがあった。何かもっと難しいことをしなければならない、このモデルではこれが限界かと金曜に思って、諦めかけたのが、その必要は無いことが分かる。数学の霊妙さに打たれる。ひとつの方程式から小宇宙が開闢する不思議。頭の中では解決した。その後、未だ明るいうちに、風呂に入り、良い気持ちになる。家の裏が林で、風呂の窓から良い気が流れ込んでくる。明るいうちに風呂でくつろぐのが最高の贅沢。

夜、中古で買った"Drag on Dragoon2"というゲームを子どもと一緒にやる。ドラゴンと魔物の空中戦が良くできていて良い。テレビゲームの類は、浪人(前半は宅浪、これも死語です)の頃、「スペースインベーダー」の最初のバージョン(と思われる)をやって以来、その進歩を逐一目撃してきたと自負している面があるので、子どもに負けるわけにはいかないのであった。そういう意味では、インスタントラーメンもその発生から現在までフォローしてきたと思っている。東鳩がインスタントラーメンを作っていたことがあるなんて、知らないでしょ?

最近、家では瞑想に時間を使ってしまって、勉強する時間を作っていないので、明日からは勉強もしようと思う。やはり数学。明日は、論文に手を入れることもしようか。月曜には、火曜の重要なヒアリングの準備を早めに終えておかなければならないので、論文にかかる時間が取れないかも知れないので。

「20世紀少年」21巻も読んだが、全然駄目だった。話が全く進展しない。思わせぶりなだけで、謎が謎になっていないような気がする。方法論的に破綻してきている感じか。

小学生の子どもがお年玉の残りで買った本の中に、理論社から出ている養老孟司のものがあった。どんな感想を持つか、興味津々だったが、子どもは、ひとこと、「この人ぜんぜん駄目だね、子どもの質問に答えないで、虫でも捕りなさいなんて云ってるんだ」。大人は瞞せても、子どもをだますのは難しいようだ。

なかよし老婆




  1. 2006/03/05(日) 00:45:39|
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