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師走に沈殿すること

この二週間ばかり、色々と、生活に追われている感じで、朝方どころの話ではなかった。
子どもの関係でも、走り回っていた。色々な締め切りがあって、すべて予定調和的にぎりぎりにセーフだった。奇跡的だった。しかし、やはり疲れた。

年末でもあり、家の大掃除をしようと思う。
というより、今年はとくに家の中が散らかっているので、大掃除でもしないことには、正月に心清らかに過ごせない。机の上がいつの間にか、本だの酒瓶だの、お菓子だの、CDだので、ぐちゃぐちゃになっていて、狭い片隅にノートパソコンを置いて作業したりしている。家中が、この調子なのでたまらない。

しかし、今日は、「自分へのご褒美」に、好きなように過ごすことにしようか。少しは休むことも必要かも知れない。風呂に入って、勉強したりしよう。勉強ファンタジーだ。自分の関心のテーマの関連する本を見ていくのは、一番楽しい時間だ。今は、微分形式・カオス・力学系といったところ。広い意味での幾何学。数学は専門ではないが、深く体験することがよろこびなのであった。活元運動もしよう。久しぶりに運動もしたい。

昨日、レーザーのミラーの交換をしてもらった。さらにエネルギーアナライザーの不調も発覚したので、来年に交換してもらう方向。プロファイルが極めて健全に、新品の時よりも良くなっていて、来年からの実験が楽しみになってきた。小さな進展が心からうれしい。

米人ポスドク青年は、結局、来年度の契約更新をしないで、国に帰ることになった。研究からは足を洗うとのこと。何か、研究とビジネスをつなぐコーディネータみたいな仕事がしたいそうだ。

われわれ実験屋にとって、研究は肉体労働の積み重ねであって、泥臭いものである。以前、3K労働という言葉がはやったが、その類の作業の積み重ねそのものと言った方が良いかも知れない。泥のなかから蓮の花を咲かせるくらいのつもりでないと、新しい成果には到達できない。将来のことなども考えて、自分の適正がここにはないと判断したようなので、残念だが仕方がないと思った。研究に関して、「詰めの甘い男」だというのが、私の評価で、そこをこれから、内面的な血の流れる努力で如何に克服していくか。そこを見てゆくつもりだったのだが。

三年程度の期間でめざましく成長してゆく若者もいて、驚かされる場合もある。人間が成長する時間は一様に流れるわけではなく、それぞれに固有の時間があるのだと思う。彼の前途を祝福するというような、きれい事のはなむけの言葉だけは与えないつもりだ。むしろ、今後の苦労が彼をもっと魅力のある男にすることを願う。ハイテク関連の景気が良いらしいアメリカでは成功のチャンスはいくらでもあるのだろう。
歩く人



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  1. 2005/12/23(金) 12:03:24|
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時間旅行するエイリアン

月、火と福岡へ出張。
羽田ー福岡のフライトの時間に比べて、羽田ー地元間の移動時間が異常に長いため、移動中の電車、駅、飛行機の待ち時間等、一人きりになれる時間があって、普段よりよほど本が読めた。

古東哲明「現代思想としてのギリシャ哲学」(ちくま学芸文庫、2005年4月1日、初版)読み始めた。数ヶ月前、古東氏の「ハイデガー=存在神秘の哲学」を読み、もっと読みたくなって、探し求めたもの。
素晴らしく面白い。しかし、「ハイデガー・・・」でも感じた少々の異物感を、ここでは問題にしたい。それは古東氏の科学理解が、problematicなことである。私のような好意的な読者にはある意味でほほえましく、致命的だとは思わないのだが、問題化しないうちに、改訂版などで手を打っておくべきだと思われる。とくに古東氏のように大学で教えている立場では、安易な間違いはやはり許されるべきではないだろう。

さらに、もっと根源的なところで問題にすべき点もある。それは、古東氏に限らず、「文科系哲学者」の問題点であって、私自身の問題意識に密接に関わることでもある。
それは、古東氏の指摘するような、世界の無意味、世界の(神のと言い換えても良い)沈黙に関しての認識の違いである。

現代的(20世紀的)な意味で、数理的に科学をマスターしたものにとって、世界の構造は、驚異的に組織立っており、むしろ、なぜこのようにうまくできているのかの方がよほど問題なのである。世界を数理的にモデル化できること自体、Shrodinger方程式、Maxwell方程式に見られるような、基礎方程式の単純さ自体、群論のような高度に抽象的かつ簡素な見かけをもつ代数的理論が、世界の幾何学的構造を統合していること自体の方が、むしろ問題であると思われる。

抽象的な数学が物質世界を記述できること、さらに、数学がいわゆる言語のような静的な記述ではなく、ダイナミックな素材であり、構造物であり、かつ設計図でもあるような在り方をすること。というよりも、数学自体の世界に於ける在り方は、唯一無比なもので、何か喩えで表現してもむなしいような存在であること。従って、数学と現代科学の在り方は、本当のところは、ひどくesotericなものに成り果てていて、忍耐深く積み上げていった修練の果てにようやく、その手触りや、実体感が、実感できるようになる。私のようなオカルト好きにとって、この有り様はまるで、星幽界を自在に行き来し、その世界の存在者たちを従えて「魔術」を行使するという、魔術修行者のようなものである。そして、かつての「魔術」の危険性に、科学の危険性も並行しているとわざわざ指摘するのは、蛇足というものだが。

私の場合には、「これ」は、どこかでWeylも書いていたように、端的に、idea体験に等しいと思われる節がある。「それ」は、もっともっと、深めてゆけるものであるとも感じている。

その意味で、ギリシャ哲学が、幾何学精神と表裏一体を成すべきものであったことは、私には、ある意味で、当然すぎるほど当然であると感じられるのであった。

結論を急げば、現代的な意味であれ、古代的な意味であれ、幾何学を「体験」したことがない者には、真にギリシャ哲学の意味するところを把握することは不可能なのではないか、という直観であった。

St.Petersburg - Image




  1. 2005/12/22(木) 00:56:40|
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大江健三郎「さようなら、私の本よ!」読後ノート・その2

最近、新聞や雑誌を見る気が起こらないのは、良心的な「オピニオン・リーダー」が見当たらなくなったせいかも知れない、と誰かが書いていて、その通りだと思ったことがある。かつて、その良心的なオピニオン・リーダーの代表格が大江健三郎であった時代が確かにあった。

現在では、それらしき人物が出たとしても、たいてい、底が割れている。彼(もしくは彼女)が本当に興味があるのは、名声とか、地位とか、お金とかであって、要するに俗物なのである。彼らの蓄財に奉仕するために、(その本を買ったりして)自分の少ない小遣いを使うのは癪に障ることである。

才子はいるようだ。しかし、かつての大江健三郎のような、知識人としての使命感は全くと言って良いほど感じられない。ニーチェが人間に対して不平等な視点を力説するのは、その真意は私には未だわからないが、少しだけわかるような気もするのだ。確かに、ある種の使命感を持った知識人が存在しない社会というのは、最低のものかも知れない。日本の現状を見ると、民主主義の悪い面が出ているのは確かかも知れない。知識人かつ俗物というのは、実は最低の人間なのだ。最近使わなくなったが、マスコミで「エリート」と言う言葉を使う場合には、そんな侮蔑の感情が無意識的にであれ、現れていたような気もする。

自分を棚に上げて(と言っても、自分が立派な知識人であるわけではない)、こういうことを書いても、唇が寒くなるだけだが、静かな週末のたそがれ時に、それにふさわしい気持ちになれるように、感情の整理をしている面もあり、お許し願いたい。

かつて、知識人としての責任というのは、端的に、自分の政治的な立場を明確にすることだったと思う。その意味では、大江氏も、三島由紀夫も、(両極端だったにせよ)知識人だった。数十年前、岩波の雑誌「世界」で、大江が「状況へ」、小田実が「状況から」というエッセイを連載していて、学生の私は楽しみにして愛読していたのだった。「世界」に掲載される他の論文的な記事よりも読みやすいせいもあったのだが。

韓国では未だ、朴チョンヒ大統領の独裁制が布かれていた頃で、日本政府はそれを支持していた。ちょうど、私が浪人していた年に、日本政府が対韓借款を閣議決定した。その直後に、韓国の政治犯が数名処刑された事件が起きて、全電通会館で、緊急抗議集会が開かれた。日本政府は政治犯の処刑にゴーサインを出した、それは許されぬ行為だ、ということだったと思う。その集会で、大江氏が講演を行った。偶然入場を見かけた大江氏は、通路を、ボディーガード二名に両脇を支えられるようにして現れた。未だその頃は、「セブンティーン」事件のほとぼりが冷めず、右翼に脅かされていたのだと思う。彼が、何を、どのように語ったのか、今となっては全く思い出せず、恥ずかしいが、浪人生だった私にとって大江氏は、そのような政治的状況に積極的にかかわりあう知識人の典型として、眩しく映ったであろう事は確かだと思う。

大江氏は自分にとっては、そのような作家であり、偶々書店で見かけて本を買って読んだら面白かった、と言うものではない(もちろん、そのような出会いもすてきです)、極めて政治性の強い作家なのだ。そして、この希望の見えないような大状況の中で生きることに何らかの救いを指し示す事が出来るシリアスな作家でもあった。したがって、ある種の期待を胸に秘めて、この本を読み始めたと言って良いだろう。

本題に入る前に、ここまで書いてきて、疲労を感じた。
買ってきて未だ聴いていないジャズのCDも聴きたいので、残りは、また、後日にしたい。
サンクトペテルスブルグ・監獄跡




  1. 2005/12/17(土) 18:59:49|
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新しい実験

一昨日に引き続き、新しい実験(in-situ)の二回目を昼に行い、うまくいかなかった。皆で遅い昼飯をうどん屋に食べに行く。クリームあんみつが好物なので、食後のデザートに頼むことにしたが、一人だけというのも何なので、皆にもおごる。ポスドク米国青年は甘党で、辛いものが食べられない人で、喜ぶ。次からはあんみつを主食にする由。
二回目の後で、青年の提案で、もう一度室温で試み、光学系、分光器の設定、その他すべてオーケーであることを確認出来た。しかも、貴重な二次データを得た。
それを踏まえた三度目で、in-situの測定に成功した。

論文のためのデータ整理は時間がかかる。明日、自宅で作業しようかと思う。



  1. 2005/12/16(金) 20:26:57|
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データを見ること

生データは数字の羅列で意味が見えないわけだが、excelでグラフにして、データを見る。
マクロで作業効率を上げるつもりだったが、うまくできなくて、結局毎回手作業でグラフ化してみる。ほしいデータが取れたかどうか自信が無く、だましだまし、作業を進める。午後には、風邪っぽくなり、最近始めた活元運動のせいか、首筋も痛く、かなり憂鬱になる。ちなみに、活元運動では、その反応として「弛緩期」、「敏感期」、「排泄期」という三段階があって、今は敏感期で、痛みが出る時期なのだ。記憶が正しければ、そういうことだった。

しかし、いつも一番辛い午後、欲しかったデータが、見つかった。
音量を落として、フィニアス・ニューボーン・ジュニア "A world of piano"をかける。
密かな祝祭のつもりだった。
Dehoudという曲が好き。For Carlも。

研究者は、素晴らしい研究結果さえ出れば、救済されてしまうものだ。西部劇に出てくる、見るからに浅ましい無精ヒゲの金採掘業者が金鉱を掘り当てたシーン。そんな感じか。
どんなに見苦しくても、みっともなくても、そのうれしさは何ものにも代え難い。これさえあれば、千万人といえども我行かん(古いね)、という気持ちになれる。factに勝ものはないから。

これを先にレターペーパーで書くことにする。冬休みに入る前に。


  1. 2005/12/15(木) 14:43:03|
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怪我の功名

昨日は、装置からフッ素ガスが漏れだして、実験が中断し、午後、業者が入ってlaserの修理をしてもらった。自分たちではガス漏れ箇所が発見できなかったのである。
その結果、十年来使ってきたガス精製装置がもはや修復不可能な壊れ方をしたらしいことが判明した。ミラーの汚れも判明。仕方ないので、ガス精製装置無しで運転してみたところ、今まで落ち気味だったlaser powerが回復してきた。どうやら、ガス精製装置がうまく働いていなくて、むしろガスを汚していたらしい。ミラーも来週交換することにしたので、今後、新品だった頃の性能がよみがえることを期待する気持ちになる。こういうことで、パワーが上がれば、実験的にもブレークスルーになるかも知れない。

話は変わるが、見えなかった悪いところが明らかになって、状況が変化・発展するのはむしろ良いことである。しかし、姉歯氏でクローズアップされた問題は、住宅ローンで苦労している自分には人ごとではなくて、何とか被害者を救済すべきだと思う。関係者にその能力がない場合、藤原新也氏も言うとおり、放漫経営で破綻した銀行の救済で気が遠くなるほどの金を気前よく供出した日本政府は今回、金を出すべきだ。実際、その程度の金はあるし、この件では大いに責任もあるはずだ。

論文関係は、まず、書く気になっている新しい論文の作業を進めて、気持ちが収まったら、rejectされた方の手当てをすることにした。何よりも自分の意欲が大事で、これを無視すると、むしろ作業効率も下がってしまう。仕事が多すぎるときは、やるべきことよりやりたいことを優先してみる。


  1. 2005/12/15(木) 11:05:07|
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悦ばしき朔風

自信作の論文がreject(掲載拒否)された。
画期的過ぎると、受理されるのは難しくなるわけで、それなりに、レフェリーを納得させるべく周到に書き進めなければならない。そんなことは分かっているつもりだったが、思わぬ死角から問題点を指摘された。それは致命的な欠陥ではないと思われるし、レフェリーが好意的な場合、その部分を書き直せば良いという判定もあありえたはずだった。しかし、あまりにも刺激的な内容の場合、レフェリーによっては、否定的な判断を下す傾向があるだろう。

私の過去の国際会議の口頭発表まで調べているので感心したが、肝心な点は理解されていないようであった。数学的にエキゾチックな手法を使っているので、物質科学関係の普通の研究者には理解が難しい内容なのである。

朝、返事の郵便を開封する際はドキドキしたが、掲載拒絶査定は正直言って、がっかりであった。まず、また書き直す時間が無駄のように思えた。しかし、夕方になり、気を取り直す。画期的な発見が、あまり有力ではない学術誌に掲載された例は多い。逆風がむしろ、誇りであると、思う(多少の無理はありますがね)。より完成された論文に書き直す。

今の風潮で、論文も大作は好まれず、また、論文の数が評価の対象になることもあって、細切れに書く方がTRENDYなのであるが、改稿によって大作化しそうな案配である。

こういうときには実験装置も壊れる。
しかし、偶然近くに出張っていた修理の人がすぐに入ってくれたので助かった。

昼休みに住宅ローンの借り換えの相談。金利がそろそろ上昇しそうなので、早く手を打つ必要あり。うまくいけばよいけれど。生活苦と学苦痢から脱出したい。


  1. 2005/12/14(水) 17:19:05|
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朝方に切り替えること

今日から心を入れ替えて生活を朝方にしよう。
ともかく、夜は寝ること。
小学生の日記みたいだが、そんなものである。
ブログ日記も、朝書く。

昨日は、新しい実験を始めた。余分の信号が強かったので、今日は干渉フィルターを入れてみる。

最近めっきり寒くなり、朝、車がガチガチに凍っているので、エンジンをかけて解凍している間、ブログを書く。今日から、水泳を復活させようと思う。

勉強の方が面白くなると、ブログで書くことが無くなるようだ。

「善悪の彼岸」第4章「箴言と間奏曲」読了。第5章「道徳の博物学について」読む。ショーペンハウアーは、食後にフルートを吹いた。そんな生活態度で、厭世主義者、世界と神の否定者たる厭世主義者と言えるのか! と、ニーチェは非難する。この本には、少し、受けねらいじみたところがあるとも思える。


  1. 2005/12/14(水) 08:03:01|
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活元運動復活

そういうわけで、遅い食事の後に、冷えた二階の大部屋で、久しぶりに活元運動をした。
家内のエアロビの練習用に大きな鏡が置いてあり、その中に自分が映り込んだら少し怖いような気分だった。そのせいもあって、完全に虚心にはなれなかったが、久しぶりの割には良く出たかも知れない。これからは、復活させようと思う。

活元の後、床に大の字になったまま、最近の自分はあまりにも頭でっかちで、少しバランスが崩れていたと思った。動物的な、意識を拡散させた在り方を、忘れていたと思った。
書きたいことはいくらでもあるけれど、明日もあるので、もう寝ようと思う。


  1. 2005/12/13(火) 00:21:09|
  2. オルタナティブな身体|
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活元運動といわゆる「気」について

日曜にほとんど一日眠っていたにもかかわらず、今日も、沈殿したような感じで、仕事らしいことはせず、実験室を抜け出し、ロビーで一人勉強する。夜、帰宅したら、活元運動をしてみるつもりだ。
ご無沙汰していたが、これだけコリが酷くなると、それ以外に抜け出す道はない。

活元運動とは、故野口晴哉氏の「野口整体」の核心部分を成すもので、無意識の体操みたいなものである。つまり、身体が、治癒に必要な動きを自動的に繰り出してくる訳で、ハタから見ると、実に気味が悪いらしい。しかし、そんなことを言ってはいられない。これだけ凝るとどうしようもない。眼鏡の度が合わなくなってきたのがいけないのかも知れないが、レンズの新調は物いりで、少し躊躇しているのだ。

野口整体の話のついでに、いわゆる「気」について。
何年か前にも、一時期、ブームが来たようだが、私が初めて「気」を体感したのは、日暮里あたりの野口整体の道場に通っていたときで、掌に感じるのがもっとも敏感でわかりやすかった。昔の武芸者のように、身体全体で感じるようになるには、修練が要るのだろう。私のオカルト入門はこのあたりから始まった。「東洋の気=西洋神秘学におけるエーテル体」という話に大いに興味を持ったわけだが、その後停滞したままである。しかし、何かのきっかけで、再燃しないとも限らないと思っている。

量子力学のおかげで、物質に関しては科学は偉大な威力を発揮して、基本的な理解は完成している。しかし、生命、さらに精神という段階になると、科学の扱える部分は、その物質世界に於ける隋伴現象の発現だけであって、未だその奥のリアリティーに達する方法論をもってはいないというのが、私の密かな見解なのであった。

したがって、物質以外に何が存在するというのか? という世界観に対しては、その貧しさをまず指摘したいと思う。意識とか、認識とかが、脳内の物理的化学的過程から生ずることは考えられないと思っている。これは素朴で、原始人じみた感じ方かも知れないが、物質だけが実在するという考え方も、それに負けず劣らずで、今のところ、両者の間に勝負が付いた気配は全くないと考えている。


  1. 2005/12/12(月) 16:27:42|
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個人的な聖域

職場の食堂で同僚X氏と話をしていて、今一人になって彼の印象を思い出してみると、不思議に純粋な感じがした。今更のようにも思えるが、先週学会に出て話をした何人かの人たちと比べる気持ちが生じたのだろう。

X氏は40代だが独身で、車の免許も持たず、一人でコツコツと計算を進めている。生活者としての苦労とか、面倒な人間関係とかから結果的に自由で、週末には実家に帰ったりしているらしい。考えてみるともう二十年近くのつき合いになるが、その人格というか、生き方が、知り合った頃と全く変わらないように思える。一言で言えば、聖域のなかで守られた人なのだろう。彼は、臆病な性格で、飛行機にも乗らないので、外国にも行ったことがないらしい。しかし、学問とか、芸術とか言うものは、自分の聖域をもたなければ、育てることは出来ない。この十年で、日本もずいぶん住みにくくなり、私が研究者として生活を始めた頃の牧歌的な雰囲気は、どこを見渡しても見あたらなくなった。そう思っていたが、x氏の人格のなかに、その残り火が未だ燃えさかっているのを発見したような気がした。
原っぱ2




  1. 2005/12/12(月) 13:17:42|
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保守的な習慣 スピルバーグ「宇宙戦争」

金、土と、御茶ノ水のN大に通って、学会に参加する。

のど元過ぎれば熱さ忘れると言うけれど、この学会発表の前後は結構緊張もし、大いに疲労もしたのに、帰宅して風呂を浴び、一人でスピルバーグの「宇宙戦争」を見てしまった現在、発表の成功による昂揚感も、終了後の開放感も過去のものとなり、むしろ虚構の宇宙人の攻撃の恐ろしさの印象の方が強いのであった。

やはりハリウッド製の宇宙人は興味深い。リドリー・スコットの初代「エイリアン」の生態学的な味わいのある宇宙人(というか宇宙生物)に若い頃、度肝を抜かれ、それ以来、何だか目が離せない感じがしている。最近では、シャマラン「サイン」の宇宙人も、屋根を走り回ったりしてサービス満点で、とても良かったが、「宇宙戦争」の宇宙人も、いい味が出ていた。ただ、純真な小学校高学年生くらいで見たら、トラウマになってしまうかも知れない。救いは、主人公がトムクルーズであることで、彼の顔を見ている限り、これは映画なんだと思い、安心していられる。もっと、普通の生活者の顔をした無名の俳優だったら、怖くて見ていられないような気がする。特撮が、素晴らしい音響と相まって、CGを忘れさせる。
10歳の娘、ダコタ・ファニングは、トムクルーズよりも名優なので、映画の怖さを倍加してくれた。ダコファンありがとう。

アメリカ人の「エイリアン幻想」には、きっと日本人には想像が付かないくらい強烈で具体的なものがある。何か、かれらの無意識に巣喰う恐怖に強く響くものをもっているようだ。

ちなみに、地下室を探索してくる恐怖兵器のプローブ(探索機)は、平和を希求する海底人と出会うSF映画(エド・ハリスが主人公で、監督はジェームズキャメロン、名前が出てこない)に出てきたもののパクリでしょう。

一カ所だけ笑えたのは、宇宙人と闘うつもりの孤立した地下室の住人が、「大阪では(宇宙人の恐怖兵器)を三台倒したらしいぞ、日本人に出来て、われわれに出来ないわけがないじゃないか」というところ。スピルバーグも大阪人の生命力には一目置いていると言うことなのか。しかし、中国で上映されるバージョンではこの台詞が「上海では・・・」になっていたりするのかも知れない。抜け目のないハリウッドのことだから。

学会関係に戻る。

自分で自分のことは分からないものだし、だいたいにおいて自分の味方になってものごとを判断している方なので、ますます自分自身を自分の都合の良いようにしか見ない。
だから、たまに自分のことを人が評してくれた場合も、気に入ったことは覚えているが、気に入らないことはすぐに忘れてしまう。

元々見かけが老けているので、実際の年齢よりも年寄りに見られる。
今回は、年長のH氏から、酒の席で、「K氏は態度がでかいので私と同じくらいの歳だと思っていた」と言われた。自分は戦々恐々と生きているような気がして情けなかったのだが、そういわれると何だか自信がついた。H氏ありがとう。

自分で自分を励ますことは、私のような逆境の人間には重要だし、不可欠の習慣でさえある。弱さをアピールしたり、追求できる人は、本当は強い人か、まだまだ追い込まれていない人だと思う。
今回の発表では、とくに、大学院生とか、ポスドクくらいの若い人に面白かったと言われたことが、うれしく、励まされた。これは自慢みたいなものだが、自分の仕事が若い人の刺激になれば、こんなにうれしいことはない。ポスター発表でも熱心に質問してくれる若い人が来てくれて、私の説明にも熱がこもってしまった。若い人、ありがとう。

帰り際に、ディスクユニオンで、中古CDを5枚(7500円程)買う。良い買い物だと思ったのだが、早速聴いてみたフィニアス・ニューボーン・ジュニア「ヒア・イズ・フィニアス」は、未だ「人生の味」が出ていない、ひたすらすごいテクニックを披露しているみたいな気がして、今ひとつだった。しかし、聞き込むとまた違う印象になるかも知れない。


学会では、みすぼらしい宝石と、立派な石ころを見た。
しかし、宝石を宝石と当人が認識しているのかどうかが問題だった。
だれも君の宝石は磨いてはくれない。自分で磨くしかないんだ。
立派な石ころの方は、K国の重要な研究施設の所長の発表だったが、私は疲れていたせいもあり、途中から寝てしまった。しかし、その短い睡眠が疲労を回復し、風邪も治してしまった。K国所長、ありがとう。

せっかくの御茶ノ水・神保町界隈だったが、今回は、探求心を発揮できず、保守的に見知った店にしか入らなかった。ランチョンで、「牡蠣フライと牡蠣チャウダー」とか、「さぼうる」で昔っぽい味のコーヒーとか。でも、次回も、やっぱりランチョンで、「オムライスとメンチカツ」にしようと思うのだった。



  1. 2005/12/11(日) 01:13:02|
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面白味に欠ける一日  

午前中に、「組織」の特許関連の担当者と相談。百戦錬磨の男とお見受けした。
最初からこの人物の助太刀を頼めば、事態はもっと好転していたはずである。
ともかく、異端審問の先生と対面して勝負することになりそうだ。

午後に、明日の発表準備。時間が無駄に過ぎる。正味十分の発表なので、如何に捨てるかだけの問題である。これからは、こういうことに時間を潰さないことを真剣に考えなければならないと思う。

それだけで、夜になる。帰りに子どもに頼まれたマンガを買い、ついでにスピルバーグの「宇宙戦争」のDVDを借りる。週末のささやかな楽しみに。

明日は、午前中早く、仕上げられなかった発表の準備を完成させ、昼飯には「ランチョン」で牡蠣フライを食べたいと思う。ディスクユニオンで、評判の良い「Jazz bar 2005」も入手したい。これは、プロデューサーが自画自賛していた(あかぎ小次郎のジャズの細道・PCMジャズ日記・参照)もので、2001年以来、最高の出来とのこと。

写真は、パリの老舗大衆食堂。今年の初夏、知人に連れて行ってもらったときのもの。映画「ロング・エンゲージメント」にも使われていたように思う。
おもひで




  1. 2005/12/08(木) 23:13:10|
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異端審問官

午前中にN大のN先生とSS研究所のM氏来訪。ちょうど実験中だったので、実際をお見せする。M氏「意外に穏やかなプロセスですね」。
そうだ、何か激烈なイメージを喚び起こすようなものが私の研究にあるのだとすれば、光栄なことだと思う。
共同研究に発展する模様。M氏は宇宙関連の仕事をしているので、うまく進むと楽しいだろうな。

午後になってすごく疲れを感じた。やはり初対面の人と過ごしたせいかと思ったが、家に帰って、気がつくと、今日一日、少し肩幅の小さくなった長袖Tシャツを着ていたのであった。拘束衣を着て仕事に出かけてしまったようだ。これでマスクをすれば、働くレクター博士。

午後は、特許拒絶査定への対応。審査官が化学系の人らしく、物理とか、結晶のことが全く分かっていないらしかった。悪逆非道の異端審問官と闘う魔女裁判に臨席しているような、素晴らしい緊張感を味わいつつ、反論を書き、弁理士さんにメールで送る。

夕方は、眠くて仕方がなかったが、数学の勉強を進める。

「善悪の彼岸」第三章「宗教的なるもの」読了。
髑髏杯に盛られた毒液を飲み干す。そうしなければ見えてこないビジョンがあるのだ。

明後日から二日間、御茶ノ水で学会だ。口頭発表1件、ポスター2件。明日はその準備をする予定。今日は早く寝よう。
レクター氏



  1. 2005/12/07(水) 22:45:00|
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狐の嫁入り

私の丼勘定による計算ミスが、研究生活に於ける「キューバ危機」を招き、もはや核戦争勃発10秒前まで、行ったと思う。

ケネディ兄弟ではないけれど、最後の最後まで考えられるあらゆる手を尽くした結果、あっけなく危機の幕は下りた。金というものは、あるところにはあるのだと言うことを知る。しかし、この「M資金」に手を出さざるをえなくなるような状況はこりごりである(合法的な経過です、念のため)。

ケネディの気持ちが理解できる男になれた。少なくとも「危機の幾何学的形状」としては同相であって、そう思えばうれしい。危機回避で、一回り人間が大きくなった。誰も褒めてはくれないし、感謝もされないから、自分でそう思うことにしよう。

その後、海外特許の申請書の件で、弁理士さんとメールで仕事する。
夕方は、数学を勉強。難所は越えた。毎日時間を割くことである。

Omni OutlinerというソフトがMacのおまけに付いていて、作業・思考を助けるということだったので、使い始めてみる。仕事のto do listを作ると、少し作業工程がすっきりした。

そういえば、昼前、外に出てみると、初冬の弱い日差しが照っているのに、細かい雨が降っていた。狐の嫁入りだ。
黒澤明の「夢」に出てくる「狐の嫁入り」を思い出す。「夢」のなかでも、このエピソードが一番好きかも知れない。

ブログで、他の人のサイトにコメントを書くのは、少し冷や汗もので、無神経な書き込みが人を傷つけやしないかと思ってしまう。ならば、書かなければよいかというと、それも面白くない。小さい子どもは、関心のある相手をわざとぶったり、意地悪をしたりするものだが、オヤジになっても似たようなものか。もちろん、相手を傷つける意図は全くないのだが、言葉というものは、どう受け取られるか分からない、不確定性をもつものなので、面白くもあり、悲しくもあり、ということだろうか。
ロシアのバス




  1. 2005/12/06(火) 23:43:48|
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水泳でごまかす

土曜は、遅く起きて、いったい何をしていたのか思い出せない。勉強していたのかも知れない。夕方早くに寝てしまったのだろう。

日曜は、午前中にジムに行って、久しぶりに筋トレをしてから、プールで1時間近く泳いだ。帰りに、「いっとく」で、ネギラーメン「味卵」トッピング付き900円。リピーターになる模様。日曜の午後は、昼寝を試みるも、子どもが「東京事変」を大音量でかけていて、意識があるような気持ちのまま昼寝していた。本当に寝ていたのだろうか。夕方、ウクライナ産のブランデーがあるのを思い出し、二杯飲んでみたが、私には強すぎるらしく、翌朝、内蔵に疲れを感じて目が覚めた。

今日(月曜)は、土日に蓄えたエネルギーで難関に立ち向かうつもりだった。しかも、昼休みに水泳(職場近くの温水プール)をして、英気を養った。その結果、態度に自信が出たのか、ともかく、今日のところは、何とかしのぐ。

心配と言うのは、意味がない。心配するくらいなら、行動すれば良い。そうわかっていても、なかなかうまくいかないものだが、水泳をして、体を活性化し、一時的にでも体育会系のノリに頭を切り替えておくことで、この危機的状況を何とか乗り切るつもりなのだ。ゼロゼロセブン(旧くて恐縮です)みたいに。われながら御馬鹿様だ。されど、ピンチにこそジョークを。もう寝よう。明日も、逃げないで、マッチョ梅から、もとい、真っ正面から立ち向かうのだ。
autumn leaves




  1. 2005/12/05(月) 23:44:11|
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デジタル暗室の話

もりやまさんに写真を取り上げてもらえるとうれしいですね(12/3のコメントをごらんください)。

以下、日曜の夕べに、チョコを肴に強いブランデーをなめつつ、書いてみました。

12/3の写真は、初めて色(色相、彩度等)を加工してみたもので、ちょっとやり過ぎたかなと思いましたが、ブログに出してみました。閲覧ソフトによって発色が違っていることもわかりました。非常に微妙なところで、オリジナルは気に入ったのですが、IEでは少し違うかも知れません。

デジタル写真は、仕事(ミクロ、ナノの世界ですが)で使っていて、多少腕に覚えがあります(*?*)/

カメラは、キャノン・イクシーデジタル(中田選手が宣伝しているもの)の昨年の型です。携帯電話の写真も使っていて、ブログで載せているもので画素の粗い写真は携帯で撮っています。携帯の固定焦点単レンズ(だとおもうのですが)にはそれなりの味わいがあるかも知れません。

常に、フォトチョップ、もとい、Photoshop(Adobe)で、デジカメのオリジナルファイルを加工しています。
(1)オリジナルファイルは大事にとっておいて、加工用のファイルを別に保存。
(2)パソコンの処理能力によるが、オリジナルよりも、大きいファイルサイズ(10倍とか)に変換する。これは、Photoshopですと、イメージ->画像解像度->ドキュメントのサイズ、で変えます。
(3)この後、いつも、深夜寝る前の作業で、手抜きですが、イメージ->色調補正->自動(レヴェル補正、コントラスト補正、色調補正)をかけます。
(4)さらに、フィルター -> アンシャープマスク -> シャープ (またはシャープ強)をかけます。
(5)これらの処理後、ブログ用にサイズを小さく直します。私の場合、幅を70mm,解像度を180dpiで使っています。

12/3の写真では、さらに、
(6)イメージ -> 色調補正 -> 色相・彩度、 でオリジナルとは全く異なる雰囲気にしてしまいました。

Photoshopは高価ですが、デジカメのおまけについてくるもっと軽い画像処理ソフトでも、同様の処理ができるのだと思います。
デジカメ写真は、撮ってから、パソコン上のDPEに出すと言う感じです。
したがって、カメラの癖もあるでしょうが、撮影後に、自分のイメージに合わせてデジタル暗室作業を行うということでは無いかと思っています。
以上、全くの我流ですが、お役に立てればと思います。


  1. 2005/12/04(日) 18:09:29|
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我らの狂気を生き延びる道を教えよー頓馬天狗

今日は、自分の頓馬ぶりに翻弄された一日だった。

高校生の子どもが、ある時、「悪い人とか、厭な人とかがいても、その人がどうしてそうなったかまで考えると、その人を憎んだり、責めたりする気がしなくなるんだ」と言ったことがあって、私の教育が一番大事なところでは間違っていなかったのかもしれないと思い、泣けた。精神年齢17歳の親を持つ子どもは大変だろう。しかし、精神年齢17歳のオヤジの人生も大変なのだ。

「明日の事を思い煩う勿れ、今日一日の苦労で十分だからである」というのが、私が覚えている唯一の聖書の言葉で、きっとこんな夜は、寝る前に自分に言い聞かせることになる。

ミロシュ・フォアマンの「アマデウス」で、モーツアルトの嫁と、同居している父親がいつもの様に言い争いをはじめるシーンがあった。二人が争う部屋をそっと抜け出し、ドアを後ろ手に閉めて、書斎に逃れたモーツアルトは、譜面に向かって作曲を始める。このシーンが忘れられないのは、人間が芸術だの、美だのを必要とする消極的な理由を印象的に表現して見せたからだと思う。昨日と今日二日がかりで、「魔笛」の全曲を聴いた。

車の中で、ライアン・カイザー「ドナ・リー」聴く。暗闇の中を走りながら、慰められる。

原っぱ




  1. 2005/12/03(土) 00:49:14|
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精神年齢17歳の衝撃

自分の生活を省みると、浪人生だったころに確立した習慣に完璧に支配されていることがわかる。日常的な生活圏もその頃からそれほど広がってはいないかも知れない。

仕事には、「雑用と作業」というカテゴリーがあって、それに対立するのが「研究と勉強」である。前者ばかりだと精神的におかしくなってきて、うわごとを口走ったり、コーヒーを鼻から飲んだりするようになるので、そういうときには、締め切りを過ぎていても、後者に切り替える。

研究と勉強を比べると、本当は、勉強が一番好きだ。これはもちろん、内緒で、勉強はいくらしても、自己満足の世界であるから。何かこの世界に新しいものをもたらすのが研究だとすると、勉強は、すでにあるもの、確立されたものを学ぶだけなのだ。しかし、相変わらず、本を買い込んで、「学問を深める」のが喜びなのだ。傍から見ればたいしたものではないのだが。本当にわかったという気持ちになりたいだけなのだが。しかし、もちろん、巡り巡って勉強したことが研究に活かされる、と言うか、研究の中身を変えてゆくことになる。
これからは、早寝早起きに切り替えて、勉強の時間を確保しようか。
森




  1. 2005/12/02(金) 00:27:00|
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ようやく論文投稿。そろそろ寝なければ・・

今日、ようやく論文投稿。
webで投稿するシステムで、慣れると早い場合もあるが、今回は、うまくいかず、午後一杯かかってしまう。恥ずかしい。しかも、論文の長さが規定量を超える可能性もあるので、不安である。しかし、前に進まなければならない。もうこれ以上同じところに留まっていられないという気分が強く、ともかく投稿してしまうことにした。

「善悪の彼岸」、第三章「宗教的なるもの」少しずつ少しずつ読んでいる。とても面白い。いつかまじめに旧約も読んでみたいという気にさせてくれる。

岩波から出ている「ナグ・ハマディ文書 II 福音書」は、新約のイメージを覆す本で、時間ができたらきちんと読み始めてみたいと思う。
これは、ご存知のように、1945年にエジプト南部の町ナグ・ハマディ付近で、アラブ人農夫によって発見されたパピルス文書であって、グノーシスとキリスト教がごっちゃになったような、不思議な内容である。そもそも聖書の成立自体がどうなっているのか、考えさせられる。

もっとも、こんな偉そうなことを書いているが、まじめに聖書を読んだことがあるわけではない。明文化されているキリスト教が宗教的なるものの取っ掛かりとしてはアプローチしやすく思えるだけなのだ。
君が善かれというなら、私は従おう。




  1. 2005/12/01(木) 00:33:53|
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